初めて出会った七里ヶ浜の空気
「最初に七里ヶ浜を訪れたとき、“かっこいい”って思ったんですよ」
笑いながらそう話す池田さん。神奈川県平塚市で育ち、若い頃はあちこちの海に足を運んでばかりだったという。
料理人としては、平塚のイタリアンレストランで25年間勤め上げた後、2010年に独立。独立先を探していたときに惹かれたのは、都会にも1時間ほどで行ける距離感と、自然が色濃く残る環境のバランス、そして七里ヶ浜の穏やかな波質だった。
決定的なきっかけは、奥様のご友人と伊豆にサーフトリップへ行った帰り道だという。ふと目に留まったビルの“テナント募集”の貼り紙。「ダメもとで電話したら、あっさり決まっちゃって」。そこは、テラス席から海が一望できる絶好のロケーションだった。
池田さんは「この街は湘南の中でも個性が強くて、商業施設が少ない分、田舎っぽさも残っていて。日々の中で、海や山の景色を眺めるたびに“やっぱり特別だな”と思います」と語った。
お店も自宅も七里ヶ浜に構え、商売と暮らしの境界がほとんどない日々。そこには、ゆったりとした時間のリズムが流れている。
海風と笑い声、そして溶け込む日常
お店へ向かう道すがら、潮の香りを含んだ海風が頬を撫でる。遠くから聞こえるのは、海辺を走る子どもたちの笑い声や、ゆったりと歩く犬の足音。そうした日常の断片が、この街のリズムを物語っているようだと池田さんは言う。
「地元のお客様が、ふらっと寄ってくれて常連になってくれるとき、“あぁ、この街にちゃんと溶け込めているな”と思います。観光客向けじゃなく、最初から地元の人のために作った店だからこそですね」
地域の人々の距離感は心地よく、温かい。道ですれ違えば自然と挨拶が交わされ、自治会やお祭りは手作りの温もりに包まれている。移住者と昔からの住民が混ざり合い、ゆるやかに繋がっていく景色は、平塚出身の池田さんにとっても新鮮だった。
暮らしの中で大切にしているのは、決まりきった習慣ではなく、その日その日を自分らしく過ごす“余白”だ。料理も「全て趣味」と話す池田さん。その肩の力の抜け方すら、この街の空気に馴染んでいる。
変わりゆく街と、これからの関わり方
シチリアーナを始めた2010年当時、七里ヶ浜はまだ静かで、観光客も多くはなかった。海と山の景色が広がるだけの贅沢な時間が、そこにはあった。
十数年が経ち、街には人気のカフェやレストラン、商業施設が増え、週末には多くの人が訪れるようになった。
「昔の静けさを懐かしむ気持ちもありますが、それもまた街の成長。変化を受け入れつつ、地元の人がほっとできる場所であり続けたいですね」
そして、もし湘南や鎌倉で暮らすことを迷っている人がいたら、こう背中を押す。
「海や自然が好きなら、きっとこの街は合うと思います。犬と一緒に海辺を散歩したり、夕暮れの空を眺めたり……そんな何気ない日々が、本当に豊かなんですよ」
池田さんのやさしい笑顔と、七里ヶ浜の柔らかな光景が重なって、この街の温度がそのまま伝わってくるようだった。
取材後記:イチオシの一皿「鎌倉野菜の蒸し焼き」
畑から届いたばかりの鎌倉野菜をふんだんに。蒸し焼きにすれば、色も香りもやさしくほどけ、ひと皿で四季を味わえるごちそうに。
テラス席から七里ヶ浜の海を眺めながら、この色とりどりの野菜を頬張る時間は、きっと忘れられない思い出になるはずです。