香港から、湘南へ。夫婦の暮らしの場に選んだ街
「いつか夫婦でどこかに腰を据えるならーー。
私は、香港で“海が目の前の家”に暮らしていた経験があり、夫は緑豊かな静岡育ち。海と山の両方があって、都内にも出やすい場所と考えると、条件的に湘南エリアしか思い浮かばなかったんです。
とくに鎌倉は古いものが好きな私には街並みが魅力的で、最初は鎌倉に住みました」
そう語ってくれたのは、逗子の海岸通りへ続く横断歩道の角に佇む、
小さな花屋「橘」の店主・橘優子さん。
店の前を、海へ向かう親子連れや犬の散歩をする人がゆっくりと通り過ぎていく。
その穏やかなリズムが、橘さんの雰囲気とよく似合っている。
香港で生まれ、中学生までをそこで暮らした橘さんは、
英語圏の帰国子女とも異なる、ふわりとした独特の柔らかさをまとっている。
帰国後は横浜市で家族と暮らし、高校・大学は慶應義塾大学のSFCへ。
高校時代から、鵠沼海岸で花火をしたり、藤沢の駅ビルで友人と遊んだり、湘南エリアはすでに身近な存在だった。
結婚後はしばらく東京の武蔵小山に住んでいたが、
子育てや暮らしの場を考えたときに、自然と浮かんだのはやはり湘南だったという。
鎌倉・大町に8年ほど暮らしたのち、家族と逗子へ移り住んだのは一昨年のこと。
「香港は東京よりもずっと小さな島で、海がすぐそばにある場所でした。
でも、街はとてもにぎやかで、広東語も語気が強いので、あの“うるささ”が自分には心地よかったのかもしれません。
鎌倉も観光でにぎやかだから嫌がる人もいると思いますが、私はむしろ、静かすぎると寂しくなってしまう。いろんな人が混ざっている場所のほうが、他人の目を気にせず、自由でいられる気がします」
広告から花屋へ。出産を機に、逗子で独立
2014年に夫婦で湘南に移り住んだ頃、橘さんは広告制作会社を辞め、未経験の花屋に飛び込んだばかりだった。
広告では、プロモーション企画や制作ディレクションを手がけるプランナー・ディレクターとして活躍。やりがいがある一方で、明け方に帰る日も続き、体調を崩すほど多忙だった。
「朝4時に帰って、3時間寝ていたら電話がかかってくる、という生活でした。終電で帰れたらラッキー。仕事は好きでしたが、この働き方は長く続けられないなと思って。“全然違うこと”に挑戦してみたいと思いました」
その“全然違うこと”として選んだのが、花の仕事だった。
「当時、花の業界はあまり多様性がないように見えて、逆にやりようがあると思ったんです。イベントや子ども向け企画など、アイデアを形にするのが好きだったので、あまりやられていない分野で楽しいことを提案してみたい、という考えに至りました。」
未経験採用が少ない花の業界で、自ら働きたい店へ足を運び、「無給でもいいです!」と申し出たというから、行動力はさすがだ。そして、表参道の花屋で5年修行したのち、出産を機に独立を決めた。
「子どもができたら、さすがに鎌倉から表参道までは通えない、と思いました。
自分の裁量で『今日は雪だから閉めよう』とか、柔軟に働ける環境を作れないと続けられないと思いました」
鎌倉・逗子・葉山エリアで物件を探すなかで、偶然出会った場所が逗子だった。
「世界観」よりも、人。組織をつくる花屋
「老若男女、誰でも気軽に来れる花屋にしたい」という考えは、開業前から明確だった。そして、もうひとつ大切にしていたのが、最初から“チームで運営する”ということ。現在働くスタッフは5名で、ほとんどが未経験者だという。
「私自身は『自分の世界観を表現したい』という気持ちが全くありません。広告の仕事ではずっと、クライアントの課題解決をするための表現と仕組みの提案を行ってきました。花も同じで、贈る相手や用途、好みを伺って、最適な提案をするという、お題を解決していく感じが好きなんです」
「花屋の仕事で一番大事なのは、技術よりも、ニーズを汲み取ることと、そもそも人間に興味があること。だから、細かく定めたコミュニケーション力を重視して採用しています。今は自分が作るよりも、人を育てるほうが楽しい」
今年はじめて開催した「こども橘」では、小学生が花の開封からブーケづくり、接客までを一日かけて体験した。また、恐竜のフィギュアに多肉植物を植えたオリジナルの「恐竜鉢」など、ユニークな商品も好評だ。
ガラス張りの明るい店内は、花と植物が主役のシンプルな空間。
季節の花々のほか、一つひとつ表情が異なる観葉植物や植木鉢、海外製の花瓶が並ぶ。逗子の柔らかな日差しが差し込むたびに、花や緑が息をするように輝く。
「この辺りは、自然や植物が好きな人も多いし、生活に彩りを求める人が多いと感じます。
そうじゃなきゃ、わざわざ引っ越してこないかもしれませんね」
都会の感覚で、田舎に暮らす
子どもを公園に連れて行ったり、お寺やお祭りを巡ったり。家族と湘南の暮らしを楽しむ橘さん。
「閉ざされた“村社会”のような環境は苦手。でも、困ったときに助け合ったり、子どもを預かり合ったりする助け合いはとてもいいなと思っていて。この地域はそのバランスが絶妙だなと感じます」
「湘南エリアは外から来る人たちが多いから、保育園の保護者たちもほとんどが移住者で、感覚が“都内の人”なんです。でも、適度におおらかであり、つながりも受け入れる。助け合うけれど、あまり干渉しすぎない、“つかず離れず”の距離感が心地よくて、大好きな人たちに、私もとても助けられています」
花屋としても、そんな地域の空気を大切にしている。
「花屋というより、ここに来るとちょっと楽しいと思える場所。休みに来てもいいし、おしゃべりしてもいい。お客さん同士がつながることも嬉しいです。みんなの中継点のような場所になれたらと思っています」
編集後記:
「花」の漢字をアレンジしたお店のロゴマークが、洗練された印象で目を引く。こちらはデザイナーの夫が手がけたもので、「花がたくさんあるから」という着想だそう。
ちなみに、店名の「橘」は、優子さんのお母さんの旧姓。スタッフ全員が「橘」姓を名乗るというユニークな取り組みからも、“家族のようなチーム”という店の空気が感じられた。

